まだ何も終わっていない 岡村咲が秘かに掲げる将来像
あなたのゴルフ人生を教えてください vol.8 岡村咲(下)
国内女子ツアーで2013年から3年間フル参戦し、はつらつとした笑顔と豪快なビッグドライブで、多くのファンを魅了した岡村咲(30)。食べ物や太陽といった重度のアレルギーを発症し、2016年から無期限休養となった彼女が、いま思うこととは何か――。復帰を目指しつつ、時とともに変化していく心境と、自身が目指す今後の夢について聞いた。
難病と診断されてツアー撤退 よみがえった死への恐怖感
―食物アレルギーに加え、日光アレルギーが発症したのはいつ?
「2016年の5月だったと思います。その年で初めて半袖半ズボンを解禁した日に、日光に直接当たっていた部分(腕や脚)に湿疹が出て、そのあと発熱、頭痛と続きました。最後はトンカチで頭を叩かれているかのような激痛が走り、病院に駆け込みました」
―トンカチで…?
「はい。実はその前年に、北海道の試合で遠征している際、指の関節が痛くなってリウマチクリニックに行ったところ、抗核抗体(体をつくる細胞の中心核の構成成分を抗原とする自己抗体の総称)が陽性と診断され、より詳しい検査が必要と言われたのですが、そのときは試合のことで頭がいっぱいで、病院に行くことを忘れていたのです。頭痛で駆け込んだのも、症状が表に出るまで放っておいたことが原因でした」
―そこからゴルフから離れた?
「そうですね、ツアーの休養を宣言して、治療に専念すると決めました。いろいろな病院を回り、全身性エリテマトーデス(自身の細胞を攻撃する抗体が生じることにより、さまざまな臓器に炎症などが起こす病気)と診断されるまで2年ほどかかりました。まだ不明な点の多い指定難病ですが、難病と聞くと『私、このまま死んでしまうの?』という高校時代に抱いた気持ちがよみがえってきました」
諦めてもやめてもいない まだ何も終わっていない
―今思い返すとツアー参戦は死と隣り合わせだった?
「常に日中は外で暮らしていたわけですから、そうだったと思います。ただ、今振り返ればラッキーでした。人生をもう一度送ることができるなら、命を落とす危険性を考え、ゴルフはしていなかったと思うので。逆に病名を知らなかったことで、貴重な経験ができたことを、今では幸運に思っています」
―「なんで私が(こんな目に遭うの)?」という気持ちにはならなかった?
「そのような気持ちが芽生えたのは、ツアーから離れ、正式に言い渡された後のこと。ツアー参戦中は、試合に臨むことに必死で、悲観する時間もありませんでした。いま置かれている状況下で、最善の策を取ることだけを考えていたため、病気を受け止める時間さえ惜しいほどでした」
―難病と言い渡されたときの心境は?
「医師からは『完治しない』と断言されたのですが、『年齢とともに改善する可能性はあります』と付け加えてもらったことで、絶望より希望を持つことができました。これでひどい炎症を抑えることができる。診断までに時間が持てたこと、病気の知識がある程度ついたことで、復帰できる目途は立たないにしても、これくらいならプレーできるという目安を持つことができました。ですので、いまだにゴルフを“諦めた”、“やめた”といった感覚は持っていません」
ゴルフは人生そのもの ひとりのプレーヤーとして復帰する日まで
―体調が戻ったらツアー復帰したい?
「日本のツアーには戻る気はないというか、無理かなと思っています。ツアーの現状が、私のできる範囲(試合数)を超えていて、復帰したときの年齢的にも難しい気がします。将来また復帰できるとしても、1カ月に1度くらいの試合を見つけ、体調を見ながら挑戦したいと考えています」
―そう思う原動力は?
「ゴルフができなくなると思わず、突如できなくなってしまったため、ゴルフ人生に踏ん切りがついていないからだと思います。これで落ちたらやめるという気持ちで臨んだプロテストのように終われていない。会場で皆さんの前に出ることや、華麗なプレーを見せることはできなくても、ひとりのプレーヤーとして、難コースと対峙するシンプルで素朴な活動を1年でも多くできたらと考えています」
―あなたにとってゴルフとは?
「“人生”です。良いことも悪いこともプレーで学び、ツアー参戦中に大きな出来事が起こり、私の半生そのものだから。ですので、ゴルフを引退する気持ちはゼロ。人生にやめるも引退もないのと一緒です。つらさを見せず、偽りなく一生懸命に取り組んだ過去の自分を胸に、今後もいろいろなことに挑戦していきたいです」
取材協力/Koyo Golf Club 紅葉ゴルフクラブ(徳島県)