末期がんで余命2カ月 ゴルフ界の5万回斬られた男・山本誠二の半生(前編)
あなたのゴルフ人生を教えてください vol.10 山本誠二(前編)
登録者数約26万人を誇る(※記事公開日9月12日時点)人気YouTubeチャンネル「ゴルフTV山本道場」。関西弁の楽しい語り口と独特のメソッドを展開する師範・山本誠二(56)が、ことし4月に体調不良で倒れた。病名は直腸がんで肝臓にも転移しており、ステージ4の末期がんと診断。余命宣告を受けたが、その2カ月後に現場復帰を果たした。なぜ彼はそこまでコーチ業に執念を燃やし、命を顧みずレッスンを続けるのか――。ゴルフとの出合いから、コーチとして軌道に乗るまでの半生を振り返る。
役者からインストラクターに転身 クラブを握ったのは入社試験の1カ月前
―ゴルフを始めたのはいつ?
ゴルフを始める前は、時代劇の俳優を目指して京都の太秦(うずまさ)で役者のバイトをしていました。27歳のときに、ゴルフ好きの父親から「まとまな職に就いてほしい」と懇願され、仕方なくインストラクターの募集に応募したことがきっかけです。それまでクラブを握ったこともなく、面接も俳優のオーディションに行くような気持ちで臨みました(笑)。
―未経験者がインストラクターに?
はい、面接官も驚いていました。ゴルフ未経験でしかも動機は曖昧、ましてや役者のバイトを辞めてきたと言い張ったので、驚くのも無理はありません。入社試験の1カ月前から練習場でボールを打っていましたが、実技試験の際には「記念に打っていく?」くらいの軽い感覚で見られていた気がします。ただし結果は、「再度面接に来るように」と言われ、そしてもう一度面接を受けると、驚いたことに3カ月間限定の見習いコーチとして合格することになります。
―見習い期間はどう過ごした?
1時間30分のスクール授業で、1時間のレッスン前に行う30分間の座学を受け持ちました。スイングは教えられませんが、頭に入れたことは教えられる。そこで面白おかしく話を展開することに尽力しました。ゴルフ未経験のインストラクターが、唯一アピールできる時間。私の話がうまかったのかは定かではないですが、生徒さんの継続率が上がり、見習い期間以降もスクールで働くことができました。
一念発起してゴルフ留学 しかし収入はゼロに!?
―独立したのはいつ?
阪神大震災の後です。インストラクターとして2年ほど過ぎたときに震災が起こり、練習場もインフラも壊滅状態。ゴルフを教えるどころではない状況でしたが、生徒さんから教えてほしいという声がかかりました。2年間インストラクターを続けていく中で、ゴルフへの気持ちも徐々に強くなり、分かりやすいと思ってもらえる言葉や表現法を突き詰めることで、コーチングの楽しさを味わうことができていました。何かを表現して人に伝える楽しさは、役者業と似ている部分があったからかもしれません。その後、教えていた練習場から(勤めていた)スクールが撤退するタイミングで独立を決意しました。
―独立後に苦労したことは?
私のスクールに通っていただくお客さんはいたのですが、1999年に海外留学を決意します。当時ラウンドレッスンをしていて、一週間に一回のレッスンに限界を感じたことがきっかけです。母親の友人の友人の紹介で、多くのツアープロをかかえるゲーリー・エドウィン氏というオーストラリアでは有名なティーチングプロに習うことに。彼のシンプルで完成されたスイングを目の当たりにし、このスイング理論を日本に持ち帰れば、生徒さんも体を痛めず長くゴルフを続けられ、飛距離アップも望めてスコアアップもできると実感しました。
―その後、スクールの生徒は増えた?
ひとりで熱狂してレッスンしていたので、逆に生徒さんはついてきてくれなくなりました…。皆さんゴルフはうまくなりたいけれど、プロになりたいわけではない。あまりに熱を入れる私の言葉が煙たく感じられたのだと思います。それまでオーストラリアと日本を往復していたため、貯金は底をつき、生計を立てるためにチラシ配りのバイトも始めました。それもこれも自分が蒔(ま)いた種でしたが、家族には相当苦労をかけました…。
―スクールを辞めようとは思わなかった?
“5万回斬られた男”の異名を持つ、60年以上にわたって時代劇の斬られ役として活躍した福本清三さんの背中を追っていたからかもしれません。役者のバイトをしていたときに、同じ現場に入った際、アクシデントが起こってカメラが抜いていないシーンがありました。それでも福本さんは演じ続けていて、日の当たらないところでも信念を突き通す姿勢に感銘を受けました。自分も一度信じた道は全うするまで継続しよう。信念をもって進み続ければ、きっと誰かが見ていてくれると思ったのです。
恩師の悲しい表情 再認識したコーチとしての本分
―オーストラリアで学んだことが生きている?
そうですね、現在の根幹となるメソッドは全て留学時に学んだことになります。なぜエドウィン先生が教える生徒は、あそこまで楽に飛ばせるかを考え、日本人と外国人の持つ動きの特徴に着眼しました。日本人は“引く”、外国人は“押す”動きが得意。クラブは日本人が考えた道具ではないため、“押す”動作を重視して考えたときに、インサイドからクラブを入れ、うまくボールをとらえるには、“押す”より“突く”が日本人のイメージに合うのではないか――。ボールを魚に例えて“突く”イメージで打つことが、スイングの理想形に近いという発想が、“魚突きドリル”の理論につながりました。
―理論に対する周りの反応は?
“魚突きドリル”は口コミで広がり、雑誌にも取り上げられ、問い合わせも徐々に増えていきます。スクールも軌道に乗りはじめ、チラシ配りをしなくても生計が立てられるようになりました。その頃、ジュニアレッスンに力を入れていたこともあり、私の熱意がジュニアの子を持つ親に刺さったことも影響していると思います。
―ゴルフの楽しさに気づいたのはいつ?
オーストラリアに留学していたときに、エドウィン先生が何気なくラウンド後の私に向かって、「ゴルフって楽しいだろ?」と聞いてくれたことがありました。そのときに英語が分からない私は、調子のことを聞かれたと勘違いして「うーん、難しい…」と沈んだ表情で返してしまったのです。その瞬間、エドウィン先生はなんとも不思議そうな悲しい表情を見せました。なぜ自分は遠い地まで来てゴルフを学び、多くの人にゴルフを教えようとしているのか、私は非常に後悔しました。「ゴルフって楽しいだろ? 」、技術よりも理論よりも、まずはその言葉を自分が生徒さんに投げかけなければいけない――。何気ないやり取りでしたが、私にとっては忘れられないコーチとしての本分を再認識した瞬間でした。
取材協力/多田ハイグリーン(兵庫県)