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私、このまま死んでしまうの…? 岡村咲が体験した重度のアレルギー

2022/11/01 13:31

あなたのゴルフ人生を教えてください vol.8 岡村咲(上)

太陽アレルギーのため夜間であればと取材を受けてくれた岡村プロ

国内女子ツアーで2013年から3年間フル参戦し、はつらつとした笑顔と豪快なビッグドライブで、多くのファンを魅了した岡村咲(30)。食べ物や太陽といった重度のアレルギーを発症し、2016年から無期限休養となった彼女が、いま思うこととは何か――。輝かしいジュニア時代からゴルフ人生を振り返る。

ゴルフは習い事のひとつ

―ゴルフを始めたきっかけは?
「小学校時代は、水泳、テニス、硬筆、そろばん、英会話と、いろいろ習い事を掛け持ちし、放課後はとても忙しかったです。そのひとつに加わったのがゴルフ。最初は難しすぎて全く手ごたえを感じず、興味すら持てませんでしたが、5年生のときに父の誘いで参加したコンペで、たまたまニアピン賞を獲り、参加者の方に褒めていただいたことがきっかけとなり、本気で取り組むようになりました」

―褒められて興味が湧いた?
「そうですね。小学生にとって、家族以外の大人に称賛されることは少ないと思うのですが、ゴルフに関してはものすごく大きな反応が返ってくることが快感となり、他の習い事を全てやめて、ゴルフ一本に絞りました(笑)。父も根っからのゴルフ好きだったので、家族全員で応援してくれるようになり、真剣にゴルフに取り組むようになります」

―ジュニア時代に目標にしていたプロは?
宮里藍さんです。11歳のときに、宮里さんが『ミヤギテレビ杯ダンロップ女子オープン』で初優勝を飾った姿をテレビで見て、大ファンになりました。香川県で行われていた『カトキチクイーンズ』にも、徳島県からボランティアで参加するほど、宮里さん見たさに遠出も苦になりませんでした」

“あかんたれ”だったジュニア時代

―ゴルフを教えてくれたのはお父さん?
「はい。父は普段はやさしい性格なのですが、ゴルフのこととなると厳しい一面を持っていて、特に礼儀や取り組み方に対して不備があると、怒鳴られることが多かったです。練習中に思うような球が打てず、泣きながら練習を続けていると、『打った球を拾ってこい!』と叱られる始末。練習場のスタッフ室に泣きながら駆け込んだことを、いまでも覚えています」

父親と二人三脚で歩んだジュニア時代を振り返った

―結構、泣き虫だったと聞きましたが?
「そうですね。初めて出場した全国大会でも思うような球が打てず、朝の練習場で泣いていました。先のことばかりあれこれ考える性分で、不安になって涙が出てしまう“あかんたれ(主に関西方面で多用される「根性ナシ」の意)”な部分がありました」

―全国優勝したのは14歳のとき?
「はい。私は10歳から本格的に始めたため、ゴルフ歴は周りの子より浅く、実力では劣ると考えていました。大会当日は雨が降っていて、私はなぜかチャンスと思って臨みました。体格が大きいほうだったため、他の選手よりヘッドを上から入れられることができる分、有利と思い込んでいたのです。根拠のない思い込みですが(笑)、思い通りにプレーができたことで、初めて全国優勝を果たすことができました」

発症と不安な寮生活

―体調が悪化したのは高校時代?
「はい。ゴルフ部のある高知の高校に進学したのですが、そこで友人から百日咳(ひゃくにちせき)をもらい、咳が止まらなくなり、喉が切れて血が出るほどに…。しまいには血便が出たり、抜け毛が増えたりと悪化していきました。当時は親元を離れて寮生活をしていたため、本当に私、『このまま死ぬんかな』と、ひとりで悩み、絶望に陥りました」

―病名が判明していなかった?
「そうですね、どこの病院に行っても喘息としか診断されませんでした。自分でも違うのでは?と気づくほど、症状は悪化していたので、徐々に(診断結果に)不信感を抱くようになっていました。実は遅延型アレルギーは、当時まだ海外での検査機関しかなく、国内では認定できるほどの環境が整っていなかったのです」

―試合には出ていた?
「練習は思うようにできませんでしたが、体調を隠しながら、試合には出ていました。全国大会の優勝でつかんだアメリカの試合で、パター練習をしている際に高熱が出て、その後の記憶がなくなるほどの事態に…。食欲がなく『クッキーしか食べられない』といいつつ、アレルギーの一端を担う小麦を頬張っていたわけですから、かなり恐ろしいことをしていたなと思います」

取材協力/Koyo Golf Club 紅葉ゴルフクラブ(徳島県)

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