藤田寛之の一期一会 出会いが紡ぐストーリー
最終日前夜の迷いを消した1本の電話
「芹澤さんがいなかったら自分はこうなっていない」と話す藤田が最も“すごさ”を感じたのは、2010年「ゴルフ日本シリーズJTカップ」での言葉だという。
この年は4月の「つるやオープン」で優勝したものの、その後は2位が4回と勝ちきれないシーズンを送っていた。そして迎えたシーズン最終戦の「日本シリーズ」、首位に立った3日目の夜。芹澤に「どうすれば優勝できるんでしょうか?」と電話をかけた。どんなアドバイスでもいい。すがる思いで耳に当てた通話口から聞こえてきた師匠の声は「十分に実力はあるから、お前のゴルフをやればそれでいいんだよ」だった。
師弟関係にありがちな“上から”の言葉ではなかった。いまも口調まで思い出せるほど心に響いた。「お前はすごいんだから、もう俺が言えることはないよ」と自分と対等以上のレベルに達したことを認める言い回し。藤田の雑念はすっと消えていったという。「そうか、自分はそれだけの選手なんだ、と思えるようになって落ち着けました」
最終日は「66」でプレーして逃げ切り優勝。この年から3連覇し、2012年にはシーズン4勝を挙げ、43歳でツアー史上最年長の賞金王になった。こうした快挙の数々も、芹澤との出会いがあったからこそ成し遂げることができたものだった。
ヤマハとの二人三脚
藤田といえば、長く用品契約を結ぶヤマハとの関係も忘れてはならない。だがプロ転向後に出会った当初に抱いたのは、戸惑いだったという。「僕らジャンボ(尾崎将司)世代は、アイアンといえばグースネックが大好きだったんですよ。でもヤマハには“超”の付くストレートネックしかなかったんです」
今でこそヤマハの「顔」である藤田だが、プロテストに受かったばかりの身分では自分に合ったクラブを作ってもらうわけにもいかない。色々と考えた末に行ったのは「8番アイアンを7番のロフトにして、グースをつけることにしたんです」との工夫だった。
実績を残すにつれて徐々に意見を取り入れてもらえるようになる中で、藤田は一貫して「デザインは格好良くいきましょう」と伝えることを大事にする。「車だって格好いいのに乗りますよね。他のプロは自分のことを考えてモノを言う。でも自分はヤマハのことを考えて、どうすれば売れるのかを考えてモノを言っています」
「モノ造りのヤマハ、ですからモノはいいんです」との言葉に、藤田は力を込める。出会いから30年。一途に使い続けてきたヤマハとともに、いかにイノベーションを起こすかを考え続けている。
失せることのない挑戦意欲
藤田は50歳になった2020年から国内シニアツアーにも参戦。ことし6月の「スターツシニアゴルフトーナメント」で初優勝を飾りゴルフ界を沸かせたが、並行して出場するレギュラーツアーへの意欲もまったく失せてはいない。
レギュラーツアーの賞金シード復帰、国内シニアの盛り上げ、海外シニアメジャーへの挑戦…。年齢を重ねるとともに新しい目標が加わったこの先には、どんな出会いが待っているのだろう。53歳が紡ぐ出会いと成長のストーリーは、まだ道半ばだ。