日本シャフト特集
2022/07/25

変わらない? 開発出身の営業マンが貫く「変化」へのこだわり

連載:“こだわりの人”に聞くライフスタイル&仕事術
日本シャフト営業部次長の柴田仁は社会や企業の変化に接してきた(撮影:岡崎健志)

技術、クラブ、ウェア……。ゴルフのこだわりは人それぞれ。そこに様々な楽しみ方が存在するからこそ、幅広い層に愛され続けているのだろう。日本シャフトは完全国内生産でスチール、カーボンの両方を扱うこだわりのシャフトメーカー。新たなシャフトを生み出す開発陣から、それを手にするエンドユーザーまで、同社の周りには“こだわりの人”にあふれている。

元球児がウインドサーフィン担当からゴルフ担当に

元球児ながら、ウインドサーフィンのハンドルや、ゴルフシャフトの開発に携わることになる(撮影:岡崎健志)

日本シャフトの営業部次長の柴田仁(敬称略、以下同)は1988年入社。バブル景気と崩壊、OEM(他社メーカーのクラブに提供する製品製造)でのシャフト生産から自社ブランドへの移行など、社会の変化や企業としてのビジネスの変化に接してきた。

そんな中で育まれてきたのは「時代が変わっても、お客さんの要望が変わっても、どんなこともできる限り対応する」という“変化”へのこだわり。そもそも、彼の社内での役割も変化に富んでいる。

入社当時は技術職を担当。「学生時代に野球をやっていたので、自分は金属バットの開発に携われるのだろうと。面白そうだなと思っていました」。実際に担当したのはウインドサーフィンのブーム(ハンドル部分)の加工。しかし、日本シャフトは数年でウインドサーフィンから撤退したため、1991年から新規事業であるカーボンシャフト部門に加わった。

「ゴルフをしたこともなかったので、自分では『えっ?』という感じでした。そんな人間を担当にするのですからチャレンジングな会社ですよね」。2年後には生産拠点が横浜から駒ヶ根(長野県)に移り、柴田は転勤も経験することになる。

横浜への辞令を機に開発から営業職に

横浜に戻ってからはシャフトの開発から営業職へと変わった(撮影:岡崎健志)

当時の所属は営業部開発課。「クラブメーカーから『こういうシャフトが欲しい』というリクエストを聞いて、シャフトを開発するので、営業と開発は一体でした」。要望に可能な限り応えるというこだわりは、この時期に培ったものだろう。

1997年には横浜へ戻る辞令が出た。「今度こそバットの開発かなと思ったら、営業をやってくれということで驚きました」。結局、柴田はバットの開発には携わることなく、今も営業職として働いている。

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