藤田寛之の一期一会 出会いが紡ぐストーリー
小学6年でゴルフを始めた藤田寛之は、中学生のときに地元・福岡で行われた「KBCオーガスタ」で初めてプロのトーナメントに触れた。2014年には涙の初優勝を飾った思い入れのある特別な大会は現在、「Sansan KBCオーガスタゴルフトーナメント2022」と名称を変え、2回目の開催を迎える。
Sansanが掲げる企業ミッションは『出会いからイノベーションを生み出す』。藤田もまた、数々の出会いを糧とし、成長へとつなげてきた。長いキャリアにおいて出会いの大切さを身にしみて知る藤田が、ゴルフ人生における大切な出会いを語る。
プロの道へ導いた「リトル・コーノ」との出会い
かつて日本を代表するプレーヤーとして活躍した河野高明(故人)との出会いがなかったら、「プロゴルファー藤田寛之」は存在していなかったかもしれない。
同じ1969年生まれに「東の横綱」丸山茂樹(日大)。「西の横綱」桑原克典(愛知学院大)が君臨していた学生時代。トップレベルにはいたものの、特に大きなタイトルがなかった藤田は、プロを目指すか普通に就職するか悩んでいた。その時に相談したのが「ラウンドを数回一緒にさせてもらったことがあった」という河野だった。
「プロの道に進むことについてどう思うか、聞いてみたんです。自分は小さい(身長168cm)ですし、否定的な答えが返ってくることを予想していました」
ところが、河野の口から出たのは「体は小さいけど、バネがあるからやってみればいい。面白いと思うよ」との言葉だった。「バネがある、という自覚はなかったですし、厳しいことを言われるのを予想していたので意外でした。否定的なことを言われていたら、プロをあきらめて就職していたかもしれません」
河野は身長160cmながら、初出場した1969年の「マスターズ」では当時のアジア人最高順位となる13位に。翌年は12位と順位を上げ、アメリカでも「リトル・コーノ」と呼ばれる人気者だった。その先人の言葉に後押しされてプロをめざすことを決意。専修大を卒業した1992年の秋に行われたプロテストに一発合格して、プロゴルファーとしての歩みを始めた。
師匠・芹澤信雄との出会い
長らく師と仰ぐ芹澤信雄との出会いは、ツアー参戦3年目に訪れた。
プロ転向後からしばらく、藤田はなかなか結果を出せないでいた。葛城ゴルフ倶楽部(静岡)を拠点にしていたこともあり、先輩ゴルファーから「静岡なら芹澤がいるだろう」と助言を受ける。とはいえ特に接点もなく、「当時は雲の上の存在」だったために声をかけるタイミングをつかめずにいた。
意を決してアプローチしたのは、1995年「三菱ギャラントーナメント」の練習日だった。「タイミングが合えば、今度一緒に練習ラウンドで回らせてください、と言ったら『今日(同じ組に)入れるよ』と言われたんです。それで急きょ一緒に回りました。全くの予想外でした」。いくつかのアドバイスをもらうなど親身に接してもらい、シーズン後半戦からは練習ラウンドをともにする機会が増加。こうして、今でも続く師弟関係が築かれていった。