“スピーダー”誕生秘話と震災からの復活劇/大人の社会科見学「藤倉コンポジット」福島県小高工場(前編)
国内外のツアーでシェアトップを走り続けているフジクラのシャフト。しかし、その地位を確立したのはここ数年のことで、かつては他社に後れを取る時期が長く続いていた。製造元の「藤倉コンポジット」が福島県南相馬市に新設した小高工場が2011年の東日本大震災で被災。再建への道のりは平坦ではなかったが、約2年前、工場の再稼働を目前に控えたタイミングで、フジクラシャフトは日米男女4ツアーすべてで使用率No.1を達成した。取材班は復興のシンボルといえる小高工場を訪ね、その歩みを追った。シャフト復活の裏にあるストーリーとともにリポートしたい。(取材・構成/服部謙二郎)
福島県南相馬市の小高工場を訪ねて…
取材陣が現地を訪れたのは6月初旬。初夏の陽気に包まれた、蒸し暑い日だった。仙台駅でレンタカーを借り、クルマを走らせること1時間弱。小高い丘の上に小高工場の姿が見えてきた。近づくにつれ建物の数は徐々に減り、更地が目立った。震災から15年が経った今も、その爪痕は色濃く残っていた。
一方、小高工場は新設されたばかりと言われても違和感のない建物だった。中に入ると、工場長製造部長の庄子敏幸氏と、同社プロモーション部の飯田浩治氏が出迎えてくれた。
まずは二人の話をもとに、フジクラシャフトの歩みを振りかえっていきたい。
メタルヘッドの出現がフジクラの名を浸透させた
はじまりは1974年。藤倉コンポジット旧称の「藤倉ゴム工業」が、原町工場内に新事業の「CS(カーボンシャフト)課」を創設した。当時の課員はたった5人。もともと工業用のゴムや布製品を扱っていた会社が、なぜゴルフのシャフトに目を付けたのだろう。
「当時はスチールに替わって黒いカーボンシャフトが世の中に出始めたころです。日本では東レさんがカーボン素材を作り始めていたのですが、弊社が工業用品のゴムや繊維製品を扱っている関係で東レさんとお付き合いがあったので、その流れからいろいろ紹介して頂くようになり」と飯田氏は話す。
独自でシャフト開発を始めたフジクラは、1974年に最初のオリジナルシャフト『Flyrun(フライラン)』を発売した。その後オリジナル作品は長らく見送られ、細々とメーカーのOEMシャフトを作り続けていた。「当時の社員もシャフトがこんなに大きな事業になると思っていなかったはずです。一般ゴルファーがリシャフトする時代ではなかったんですよね」
今でこそ一般的となったカスタムクラブだが、当時はプロや一部の上級者以外は“クラブにあらかじめついているシャフトのまま”がほとんどだった。
1980年代後半、メタルヘッドの出現によって、プロや一部のアマチュアの間で第1次リシャフトブームが起きた。「ジャンボ尾崎さんがドライバーでメタルヘッドを使い始めたとき(87年頃)に、実はアルディラとうちのシャフトをテストしていたんですよ。まだそのときはブランド名を入れていなかったんですが、認知度は徐々に上がっていました」とフジクラシャフトが浸透していった時期だった。同時に、社内でもシャフトが「大きな事業」に格上げされた。
「スピーダー」シャフト誕生秘話
リシャフトブームの勢いの中で、新しいオリジナルシャフト「Fit on! 11(フィットオンイレブン)」を1996年に発売した。「色違い、性能違いのシャフトが11種類あって、その中から自分に合ったものを選んでもらうというコンセプトでした」
11種類も作っていたとは驚くばかりだが、実はこの中に「スピーダー」というシャフトがあった。名前を聞いてピンと来た方は多いだろう。「飛距離が出るということで好評いただき、そこから派生してスピーダーだけ独り立ちをしました」。今なお受け継がれるシャフトの元祖が、その11本の中にあったのだ。
97年に「スピーダー757」、99年に「スピーダー569」、そして01年に「スピーダー661」がヒット商品になった。特に「661」は第2次リシャフトブームの火付け役となり、「シャフトを替えるとクラブの性能が変わるということを、一般のゴルファーの方に初めて体感していただけたのかなと思います」と飯田氏は振りかえった。
スピーダーシリーズはカーボンシートの3軸織が、高い復元力によるしなり戻りのスピード感、インパクトでの走りなどから、弾き系シャフトの代名詞となった。しかし、次第に「弾くが故に暴れる」という声も聞かれるようになり、新しいコンセプトのシャフト開発が急務となっていた。
そのタイミングで登場したのが「ランバックス」(2005)だった。「スピーダーはけっこう走るタイプのシャフトでしたが、ランバックスはどちらかというと粘るタイプ。安定感を求めた方に使っていただいたと思います」
2009年には「モトーレスピーダー」を発売。「イタリア語で『エンジン』と言う意味ですね。シャフトはクラブのエンジンですよという意味を込めて日米同時にプロモーションしたのですが、あまり上手くいかなかくて…。その頃はしんどかったですね」と飯田氏は話す。
言葉通り、当時の「藤倉ゴム工業」はヒット作を生み出すことができずにもがいていた。2000年代初頭からプロモーションを始めていたプロツアーでもライバルたちに使用率で水を空けられ、打開策を模索していた。
停滞が続いたその時期、2011年3月11日、あの東日本大震災が起きた。
震災後わずか2カ月で生産を再開
地震発生は午後2時46分、津波警報発表は同2時49分、同3時35分頃には南相馬市にも大津波が到達していた。海岸から3キロ地点にあった小高工場は、どのような状況だったのか。庄子敏幸氏に震災の話を向けると、ひと呼吸ついて間をおき、当時の様子を話し始めた。
「海岸まで距離もありますし高台にもあるので、まさかここまでは津波は来ないだろうと予測して、皆で待機していたんです。ですが、津波は工場入口のすぐ下まで押し寄せ、車なども流されてきました。本来はこの辺は林や民家があったところなのですが、家屋も流され、その跡は潮の匂いとかいろんな匂いがまざったりして…」
2010年に新設されたばかりの工場では、機械や物資の散乱、建物の所々にひび割れ等はあったものの、壊滅的な被害は免れた。しかし、より大きな問題は震災の翌日に起こった。東京電力の福島第一原発の事故だ。
「小高工場は福島第一原発から10キロ圏内に位置していたので、震災後10日後ぐらいから立ち入り禁止になりました。その後、一時立入りが許可された際、線量計を首からぶら下げ、放射線防護スーツを着て工場内に入っていったのを今でも覚えています」
生産設備は被害の少なかった原町工場に移し、生産していたシャフトは全て東京に運んで出荷を決めた。震災直後、被災地の農水産物などの放射能汚染に関して誤った情報が拡散する風評被害が蔓延したが、シャフトに関しても一部そのようなことがあった。
「放射線量を全て測定して送ってくれという依頼が多くて。東京に運んだ(在庫の)シャフトは全て線量を検査してからの発送になりました。それでも3月中には出荷を再開し、原町工場での生産も4月後半には開始することができました」
地震と原発事故という惨禍に見舞われながら、在庫の出荷、工場移転、生産の再開を発災から2カ月足らずで行ったことは驚きに値する。実際、従業員もその家族も被災していて、仕事に従事できる人は多くなかった。
「4月の終わりに原町工場で生産をスタートしたときは、持ち家が流されて他県に避難した従業員の方も多く、被災前の1、2割くらいしか人が戻ってこられなかったんです。南相馬市が避難解除され、人が住めるようになり生活が戻ってきた1、2年後までは本当に少ない人数で対応していました」と庄司氏は振りかえる。
「小高工場に戻った現在も、震災前にいた従業員の方は5割弱です。大半の人が震災後に住まいを原町に近い北側に移すなどし、もっと先の宮城県まで引っ越した方もいました。通勤距離が長くなることや、小高工場が原発に近い場所にあることも抵抗があったのだと思います」
小高工場に再び灯をともし、再稼働を始めて2年が経つ。「地元で近隣の住民の方と一緒にビジネスをやっていくということが、本当の意味で生産活動を再開することだと思っています。そこに賛同してもらうためにも、これからも地元従業員の方としっかり話すことが大事だと考えています」。庄子氏は力を込めて語った。
震災後の復活劇
震災後、生産活動が日常に戻るのと符合するように、フジクラのシャフトはゴルファーの間でじわじわと人気を集め始めた。その背景には営業や開発部門の奮起があったという。
「震災後は『もう一度原点に帰ろう』ということで、営業も見直し、丹念に一軒一軒工房を回って、全国で試打会を行うなどの地道なやり方を続けました。低調だったモトーレスピーダーも13年ごろからジワジワと売れ始め、その後はエボリューションシリーズの売れ行きも好調でした」(飯田氏)
さらに、プロツアーでの使用率にも変化が現れた。2014年、女子ツアーで「スピーダーエボリューション569」や「モトーレスピーダー」が多くの試合でトップシェアになった。その後も順調に使用率を伸ばし、22年には「スピーダーNXゴールド」が開幕から最終戦までブランド別使用率No.1を獲得。38戦中半分の試合で使用者が優勝するなど圧倒的な強さを見せつけた。
勢いは男子ツアーにも波及する。「スピーダーTR」が2018年に同社として初めて男子で使用率№1を獲得した。「『TR』は、会社として初めて男子ツアー向けにしっかり作ろうという作品でした。ツアーの選手にも評価される元調子系があまりなかったんですけど、男子プロにも協力して頂いて、それをイチから作ったんです。男子選手からの評価は非常に高く、やっと男子ツアーでしっかり戦えるシャフトができたと思ったのを覚えています」
「TR」と同時期発売の「エボリューション4」の使用率も上がり、TRとエボ4で初めて男子ツアーで使用率1位を獲った。課題だった男子ツアーで明るい兆しが見えた瞬間だった。そして同時期に、今やフジクラのシャフトの代名詞とも呼ばれる“化け物シャフト”が誕生した。
「『スピーダーエボリューション7』でエボシリーズは終わるんですけど、このころにアメリカ発の『ベンタス』シリーズを発売しました。ベンタスも当初はPGAツアーで使用してくれるプロが多かったのですが、トップ選手にユーザーが少なくて…」。飯田氏はそう振り返ったが、ロリー・マキロイ(北アイルランド)やスコッティ・シェフラーなど世界のトップ選手が使用し始めてから爆発的な人気が出て、逆輸入で日本にブームをもたらすことになった。
同時期に発売した「スピーダーNX」シリーズも、同社伝統のスピーダーの系譜を引き継いでいる。「初代から非常に高い評価をいただいています。モーションキャプチャーを使ったシミュレーションを採り入れるなど、アメリカとの技術提携もより強くなってきました」
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震災から15年が経ち、工場は再稼働し、人も戻ってきた。市場でもフジクラのシャフトは順調に売れ行きを伸ばしている。男女ツアーでは同社のシャフトが使用率上位を占め、アメリカではFUJIKURAが一大ブームを起こしている。震災直後に、この未来を予想できていた人はどれぐらいいただろうか。
当時、被災した従業員の気持ちを思うと胸が熱くなる。(後編に続く)